【夏目漱石の名言】文豪漱石が遺した人生の名言9選
※夏目漱石の名言集
こんにちは、『文人』です。
夏目漱石は日本近代文学を代表する小説家・偉人として広く知られています。
『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』、『こころ』などは名作として読み継がれており、現代でも人気があります。
そんな国民的作家である夏目漱石ですが、いったいどんな人物で、どんな名言を遺した人だったのでしょうか?
この記事では、夏目漱石の名言を紹介しながら、人物の魅力を掘り下げていきます。
あなたもこれを読めば、きっと漱石が好きになるはず!
名言①
天と親がコンナ人間を生みつけた以上はコンナ人間で生きて居れと云う意味より外に解釈しようがない。
小生は何をしても自分は自分流にするのが自分に対する義務であり且つ天と親とに対する義務だと思います。天と親がコンナ人間を生みつけた以上はコンナ人間で生きて居れと云う意味より外に解釈しようがない。
『漱石人生論集』(夏目漱石/著 講談社学術文庫)
「書簡(抄) 明治39年7月2日(月)高浜虚子宛」P154
夏目漱石(本名・金之助)は慶応3年(1867)、江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)に生まれました。
学業優秀で、東京帝国大学(現在の東大)で英文学を学び、大学講師となります。
エリートというイメージが強い漱石ですが、私生活は波乱万丈でした。
生まれてすぐに養子に出されたり、厭世的な青年時代を過ごしたり……
結婚後、妻・鏡子が激しいヒステリー症状を起こし、自殺未遂をしたり……
英国留学中に孤独感や不安から、「発狂」したという噂が伝わるほどの強度の神経衰弱になったり……
帰国後も精神的に不安定な生活を送っていた明治37年(1904)、37歳のとき、友人・高浜虚子の勧めで小説を執筆。
翌年に発表された『吾輩は猫である』が好評を博します。
その頃から、小説家として歩む道を熱望するようになるのです。
「天と親がコンナ人間を生みつけた以上はコンナ人間で生きて居れと云う意味より外に解釈しようがない」
この名言は、さまざまな人生の苦難を経た漱石が、ようやくたどり着いた言葉です。
名言②
――世の中は下等である。人を馬鹿にしている。
――世の中は下等である。人を馬鹿にしている。汚ない奴が他と云う事を顧慮せずして衆を恃み勢に乗じて失礼千万な事をしている。こんな所には居りたくない。だから田舎へ行ってもっと美しく生活しよう――
『漱石人生論集』(夏目漱石/著 講談社学術文庫)
「書簡(抄) 明治39年10月23日(火)狩野亨吉宛」P159より引用
――世の中は嫌な奴ばかり。
自分さえ良ければいいという奴らが勢いづいて、迷惑に振る舞っている。
こんな不愉快なところで暮らしたくない。
だから東京を離れて、田舎で美しい生活をしよう――
青年の頃、漱石はこのように考えていたそうです。
そして28歳の頃、愛媛県尋常中学校(松山中学)の教師となります。
念願の田舎暮らし。
しかし田舎の現実は辛く、嫌な奴はどこにでもおり、長続きしませんでした。
この苦い経験が後に、名作『坊っちゃん』を生むのです。
名言③
余は吾文を以て百代の後に伝えんと欲するの野心家なり。
余は吾文を以て百代の後に伝えんと欲するの野心家なり。(中略)只一年二年若しくは十年二十年の評判や狂名や悪評は毫も厭わざるなり。如何となれば余は尤も光輝ある未来を想像しつつあればなり。
『漱石人生論集』(夏目漱石/著 講談社学術文庫)
「書簡(抄) 明治39年10月21日(日)森田草平宛」P151より引用
処女作『吾輩は猫である』で成功を収めた漱石は、小説家としての道を歩みはじめます。
明治39年(1906)、漱石39歳、この年には4月に『坊っちゃん』を、9月には『草枕』を発表。
漱石は人気作家になりつつありました。
評判には悪評がつきもの、誹謗中傷も多かったようです。
しかし、漱石は世間の誹謗中傷に振りまわされず、ひたすら我が道を突き進みます。
漱石が見据えていたのは、没してもなお、自分の文が読まれ続けて、後世の人々の血肉になるという輝かしい未来です。
名言④
死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい。
僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に一面に於て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやって見たい。
『漱石人生論集』(夏目漱石/著 講談社学術文庫)
「書簡(抄) 明治39年10月26日(金)鈴木三重吉宛」P164より引用
この翌年、漱石は大学講師という名誉ある地位をなげうって、本格的な作家活動に入ります。
当時、作家の地位は低く見られていました。
世間からの尊敬よりも、文学の理想を追う道を選んだのです。
漱石にとって、人生の大きな決断でした。
「俳諧的文学」とは、ただ自分の好きなものを好きなように書くだけの文学的態度のこと。
しかし漱石はそれだけでは満足しませんでした。
明治という新しい時代を命がけで切り拓いた維新の志士たちのように、人間や社会の問題に対して、正面から切り込みたい。
そんな野心を持っていました。
現代では誰もが知っている国民的作家となった漱石。
漱石の活躍がなければ、日本社会における作家の地位は低いままだったかもしれません。
名言⑤
あなたが私を好いていると自白されると同時に私もあなたを好くようになりました。是は頭の論理で同時にハートの論理であります。
私はあなたを悪んではいませんでした、然しあなたを好いてもいませんでした。然しあなたが私を好いていると自白されると同時に私もあなたを好くようになりました。是は頭の論理で同時にハートの論理であります。
『漱石人生論集』(夏目漱石/著 講談社学術文庫)
「書簡(抄) 大正2年10月5日(日)和辻哲郎宛」P175
教師をしていた頃の教え子・和辻哲郎からの書簡を受け取った漱石。
そこに書かれていたのは、敬愛する漱石への想い。
その書簡を読んだ漱石は、上のような返事を送ります。
冷淡で、気難しい人。
周囲からそう見られることが多かった漱石ですが、自分を好いてくれる人とは、心のこもった温かい付き合いをしました。
理屈っぽい言葉の裏に、温かな心が垣間見えるのが漱石の魅力です。
名言⑥
牛になることはどうしても必要です。
牛になることはどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。(中略)
あせっては不可せん。頭を悪くしては不可せん。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。決して相手を拵らえてそれを押しちゃ不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして吾々を悩ませます。牛は超然として押して行くのです。
『漱石人生論集』(夏目漱石/著 講談社学術文庫)
「書簡(抄) 大正5年8月24日(木)芥川龍之介・久米正雄宛」P189.190より引用
漱石の自宅には多数の門下生が出入りし、交流を重ねていました。
漱石は門下生たちに対し、時に父親のように、時に友人のように、温かく接していたようです。
芥川龍之介と久米正雄は当時の新進作家であり、漱石晩年の門下生。
上の名言は、そんな芥川龍之介と久米正雄への励ましの言葉です。
私たちは「馬」のように他者と競い合い、他者に勝つことが成功だと考えがちです。
そうではなく、「牛」のように自分のペースで根気よく歩み、理想に向かって死ぬまで自分の道を歩み続けることが大事。
我が道を押し進んだ漱石らしい名言です。
名言⑦
我は我の行くべき道を勝手に行く丈で、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。
我は我の行くべき道を勝手に行く丈で、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。
『漱石人生論集』(夏目漱石/著 講談社学術文庫)
「私の個人主義」P74より引用
大正3年(1914)、47歳の年、漱石は学習院大学で「私の個人主義」と題する講演を行います。
「個人主義」とは、国家や社会よりも、個人の自由と権利を大事にしようという主義のこと。
漱石は次のように説きます。
自分の個性を尊重するならば、同時に、他人の個性も尊重しなければならない。
我が道を行けば当然、自分から離れていく人たちがいる。
それは「淋しい」ことです。
個人を尊重する世の中は、孤独で「淋しい」世の中でもあるのです。
100年以上前の時代を生きていた漱石は、すでに現代人の孤独を理解していました。
名言⑧
死は生よりも尊い
不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死という境地に就いて常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも尊い」
こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。
『漱石人生論集』(夏目漱石/著 講談社学術文庫)
「硝子戸の中(抄)」P103より引用
漱石晩年のエッセイ『硝子戸の中』の一節です。
漱石は胃潰瘍に苦しみ、大量出血で危篤状態になったこともありました。
一時、生死の境をさまよい、回復後も苦しい療養生活を送ります。
普通、「生」は「死」よりも尊いと考えがちです。
生きているうちに出来るだけいい思いをしたい、幸せになりたい。
そうして多くの場合、悔いを残したまま死を迎えます。
しかし、漱石の考えは逆なのです。
「死は生よりも尊い」
「生」と「死」を逆にするだけで、人生が報われるような名言になります。
名言⑨
生きているうちは普通の人間の如く私の持って生れた弱点を発揮するだろうと思う、私は夫が生だと考えるからである
私は今の所自殺を好まない恐らく生きる丈生きているだろうそうして其生きているうちは普通の人間の如く私の持って生れた弱点を発揮するだろうと思う、私は夫が生だと考えるからである(中略)
『漱石人生論集』(夏目漱石/著 講談社学術文庫)
「書簡(抄) 大正3年11月14日(土)林原(当時岡田)耕三宛」P177より引用
大正5年(1916)12月9日、漱石は胃潰瘍の悪化により永眠します。
漱石の人生は、生まれた直後から亡くなる時まで、苦労や苦痛の多い人生だったといえるでしょう。
しかし、みずから命を絶つことはしませんでした。
なぜなら、自分の「弱点」を「発揮」することが「生」だと考えていたからです。
それはつまり、自分の存在を否定しないということ。
私たちは「弱点」を隠そうとしたり、否定したりしがちです。
でも漱石は「弱点」を「発揮」すると言います。
なるほど、「弱点」も私たちの個性なのですから、「発揮」してよいのかもしれませんね。
まとめ
夏目漱石の名言集、いかがでしたか?
意外と苦労人だったり、ロマンチストだったり。
気難しそうに見えて正直者で、情に厚かったり。
漱石の言葉は、当時の門下生や読者に感銘を与えただけでなく、現代を生きる私たちの心の支えにもなっています。
小説家・偉人として知られる夏目漱石ですが、生き生きとした人柄も感じて頂けたら幸いです。
漱石に興味を持った方は、ぜひ小説のほうも読んでみてくださいね。
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