当ブログにはプロモーションが含まれています

【書評】なぜ人は炎上を求めるのか?――三島由紀夫『金閣寺』

f:id:humibito:20201109125829j:plain

 

金閣寺』(三島由紀夫/著 新潮文庫)のレビュー

 

 

三島由紀夫の『金閣寺』を読むのは3度目だ。初めて読んだのは大学1年生の頃、当時は技巧を凝らした華麗な文体に目がくらみ、読み通すだけで精一杯だったという思い出がある。しかし今回は3度目。金閣寺を焼いた主人公の「私」のことが何となく身近に感じられるようになってきた。終戦後の暗い時代にいた「私」の生きづらさと、いまの時代の生きづらさが似ているように思うからだ。

お寺の子として生まれた「私」は、父親からよく金閣寺の話を聞かされたという。父いわく、金閣ほど美しいものはこの世にない」。何度もそう聞かされ、金閣の美のとりこになった「私」は、どこにいても何をしても金閣のことが頭から離れない。金閣の美とその完全さ。一方で「私」の容姿は醜い。その上どもり癖があり、ふつうの人のように話せない。そんな「私」は金閣を思うにつけ、自身の醜さと不完全さを思い、劣等感を肥大させていく。

青年になった「私」は孤独を抱え、歪んだ思想にはまっていく。人間のさまざまな邪悪さを見ることが心の慰めになるばかりでなく、「私」自身も悪の行為を働くことに快感をおぼえるようになっていく。学業がおろそかになり、寺の中での地位も危うくなり、やがてドロップアウトする。追い詰められた「私」の頭にひらめいたのが、「金閣を焼かなければならない」という想念。あの国宝・金閣寺を焼く。絶対的な美の象徴を、完全な建築物を破壊するという考えが、「私」を勇気づける。それからの「私」は生き生きとしていている。入念に準備を進めた後、機をうかがい、金閣寺に侵入。そして放火。炎上する金閣寺を離れた「私」は、独りでひそかに、何か大きな仕事を成功させたかのような解放感に浸る。


美しく完全なものを壊したい。火をつけて、炎上させたい。――そのような行為が、場合によっては心の慰めになり、快感になり得る。それは昔も今も変わらないのだろう。何かに対する憧れは執着にもなるし、愛と憎しみは複雑に絡み合う。生きづらさが限界に達した人間は、きっと何かを破壊せずにはいられなくなるのではないか。現状をどうにかして変えたい、という明るい希望。それが心の闇と混ざり合ったとき、狂気になり、悲劇が起こる。

たぶん理屈ではない。道徳では歯止めのきかない何かがある。なぜなら、金閣寺を焼いた「私」に罪の意識はないのだから。本書に書かれているのは、「私」がどう生きたのか(あるいは、どう生きようとしたのか)という告白に過ぎない。

 

 

🔎おすすめの記事

honwohirakuseikatu.hatenablog.com

honwohirakuseikatu.hatenablog.com