陰影が生む厠の美――『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎)解説③
※『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎)の内容紹介
こんにちは、『文人』です。
文豪・谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』は、昭和8年(1933年)の作品。
「陰影」というものをテーマに、伝統的な日本文化の美、日本人の独特な美意識について説かれています。
現代でも読み継がれ、建築家、アーティストなどに影響を与えている名著です。
そんな『陰翳礼讃』の内容と魅力を、
①「建築の美」
②「食事の美」
③「厠の美」
④「女性の美」
全部で4つのテーマ別に解説します。
今回のテーマは③「厠の美」。
日本の伝統的なトイレ――厠から見えてくる「陰影の美」とは何か?
『陰翳礼讃』の内容に沿ってわかりやすく解説していきます。
「厠」とはどんな場所か?
今でこそ、トイレといえば家の中にあるのが当たり前。居間や客間のすぐそば、生活の身近なところにあります。多くの場合、トイレの室内は電灯でまぶしく照らされ、白い洋式便器がピカピカしています。
一方、日本の昔のトイレ――「厠」は、現代のそれとは真逆です。家の外や、屋内の端っこ、つまり生活から最も離れた場所にあり、静かで薄暗い。便器は「ぼっとん式」で、糞尿を落とす穴の底は完全な闇。
不便で、不潔で、不気味な場所のように見えますが、そんな「厠」にも「陰影の美」があると谷崎は説きます――
日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。
引用箇所で言われているのは、「厠」という場所の特別な魅力です。
そこは、生活の喧騒から離れて、ひとりで落ち着ける場所。あるいは、自然を感じながら、精神を休める場所なのです。
客間に人が集まって談笑している中、一言挟んで、ひとりで座を離れる。廊下に出ると、ほっと一息ついて、室内よりも幾らか新鮮な空気を吸う。庭の景色をながめながら廊下を渡り、「厠」へ到着する。薄暗く静まり返ったその場所で、うずくまり、眼を閉じる。
このような「厠」の時間というのは、急ぐ必要もなければ、他人の視線を気にする必要もありません。薄暗い静かな場所にうずくまって、出すものを出すだけの、何でもない時間。いわば生活のなかの「陰影」なのです。
「厠」の風流
実際、どれほど美化しようとも、不潔は不潔。しかしそんな「厠」を、谷崎は「風流」と表現しています。
まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう。されば日本の建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であるとも云えなくはない。総べてのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、却って、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。
生活から最も離れており、庭や外に面している「厠」は、四季の微妙な味わいを感じ取れる場所。人は出すものを出しながら、虫の音や鳥の声を聴き、月夜をながめます。そうであれば、「厠」はもはや不潔を超えて、「風流」の場所。
自然の四季に触れ、ささやかな発見を楽しみ、
「昔の人もこんな気分を味わっていたであろうか……」
と懐かしい想像をする。
「厠」にはこのように想像を深めて、日常生活から悠久の歴史へとつながる奥行きがあるのです。
「厠」の美の条件
「陰影の美」を体現した場所といえなくもない「厠」。しかし谷崎は、すべての「厠」がそうであるとは言いません。「厠」がただの不浄の場とならないためには、条件があります。
その条件とは、
「或る程度の薄暗さ」
「徹底的に清潔であること」
「蚊の呻りさえ耳につくような静かさ」
これら3つの条件が必要不可欠であると、谷崎は念を押しています。
さて、現代の「厠」――トイレはどうでしょうか? ほとんどの場合、照明が明るすぎて、眼がチカチカする。それなりに清潔ですが、白い便器や、明るい壁や床をよく見ると、汚れが目立つ。さらに換気扇の駆動する音や、水を流す音が耳につく。
また、現代のトイレは、生活環境と壁一枚隔てただけの場所が多く、外の話し声や物音が気になります。
こうして昔と今を比較してみると、「陰影の美」を感じられる「厠」という場所は、一般的にはもう失われてしまったといえるでしょう。
まとめ――失われつつある生活の中の「陰影」
生活上のあらゆることを効率的に済ませてしまう現代。本来はさまざまな意味を含んでいた「厠」という場所も、今ではただ用を足すだけの場に過ぎません。日常生活からちょっと離れ、ひとりになって、精神を休める場所――そうした生活の中の「陰影」が忘れられつつあるようです。
薄暗く、清潔で、静か。
そして何より、自然のありがたみを肌で感じられる場所。
そういう場所こそ、実は私たちの生活にとって一番大切な場所なのではないか。『陰翳礼讃』を読むと、そう考えさせられます。
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