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【書評】絶望を生きる力に変えるカミュの哲学的エッセイ――『シーシュポスの神話』

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『シーシュポスの神話』(カミュ/著 清水 徹/訳 新潮文庫)のレビュー

 

 

ひとりになり、ふと自分の生活を見つめ直す。今まで当たり前にしていた行動が、虚しく、つまらないものに感じられる。周りを見渡すと、人々の顔つきには表情がなく、眼は死んでいる。鏡の自分も似たようなもの。毎日は単調に繰り返され、食事は味気ない。いったい何のために生きているんだろう、そもそも生きる理由なんてあるんだろうか……そんな問題にぶつかった時、私たちは「不条理」と向き合っている。

本書は「不条理」をめぐる哲学的エッセイだ。『異邦人』や『ペスト』の作家カミュは、本書を通して、「不条理」とは何か、また人間が「不条理」を生きることは可能なのか、ということを追究しようとする。

不条理とは一般的に、筋の通らないこと、意味のないことを表す言葉だが、カミュはこの不条理を人間の生き方のなかで詳しく説明している。

たとえば、人は自然をいろいろな言葉で賛美し、自然との触れ合いから癒しを得ようとする。しかしそれが災害となって襲いかかってきて、目の前に死を意識するようになると、状況が変わってしまう。自然がもはや人の生活をおびやかし、不自由にする、理解を超えた敵意そのものに感じられる。自然とは何だったのか。また人間とは……。人は虚無感に打ちのめされる。

カミュの言う「不条理」とは、そのような絶望的な状況と向き合った時に生じる。この「不条理」を体現するのが、ギリシャ神話のシーシュポスだ。


シーシュポスが神々から課された刑罰は、岩を山頂まで休みなく運び上げること。彼は山の頂めざして岩を転がし続ける。苦労して山頂までたどり着く。ところが、手を離したそばから岩は転がり落ちていく。麓へ下りて、再び岩を運び上げる。それを延々と繰り返さなければならない。彼に未来の希望はない。彼に与えられているのは、苦痛と忍耐、そして何度となく繰り返される無益な労働。


それでもシーシュポスは生きるべきなのか? カミュは人間の自殺について、自由の限界について考察したうえで、だからこそ「不条理」を生きることには意義があると語る。

生きることで不意に直面するさまざまな矛盾と絶望。それは人を死へと誘いこむ底なし沼のようだが、実はちがう。カミュの言葉を借りれば、それはより確実に生きるための「出発点」なのだ。


マイナスの状況をプラスへと転換させるカミュの文学。本書はその根源に触れることができる。小説と合わせて精読したい名著だ。