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【書評】女性たちの駆け込みの悲喜劇を描く連作短編集『東慶寺花だより』(井上ひさし)

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東慶寺花だより』(井上ひさし/著 文春文庫)のレビュー

 

 

江戸時代、幕府公認の駆け込み寺として知られる鎌倉の東慶寺、そこには夫と離縁したいと願う女性たちが着物や髪を乱しながら必死の思いで駆け込んでくる。事情はさまざま、夫が酒を呑んで暴力を振るう、浮気をする、金遣いが荒い、働かない……そのような家庭事情に耐えられなくなった女性たちの駆け込みを描いた連作短編集――

時代小説ではあるものの、全体としてみずみずしい印象がある。なぜなら、この小説で描かれているのが、ままならない夫婦生活、永遠に解決することのない普遍的な問題だからだ。男女が夫婦の契りを交わし、新しい生活に入る。しかし一緒に過ごすうちに、夫の嫌な本性があらわになったり、夫婦生活や家計で揉めたりする。そうして行き詰まった女性が、最後にすがる避難所として東慶寺に駆け込んでくる。


主人公の「信次郎」は、二十過ぎの若い男。駆け出しの作家であり、医者見習いでもある。この「信次郎」が、ひょんな縁から、東慶寺の手伝いをすることになる。駆け込んできた女性から詳しい事情を聞き出し、東慶寺に入るまでの世話をする。また、逃げ出した妻を追ってきた夫からも話を聞いたり、夫婦の仲裁に入ったりもする。もちろん、東慶寺の仕事は一筋縄ではいかない。夫を心から好いている上で駆け込んできた訳ありの人もいれば、別の男と一緒になりたいという魂胆を持った人もいる。さらには、女性の駆け込み寺なのに、なぜか男が駆け込んでくることも。

夫婦生活の破綻を扱った小説だけに、暗く切ない感じになるかと思いきや、意外にそうならない。物語の根底に流れているのは、男の思い通りにはなるまい、と腹をくくった女性のしたたかな強さ。駆け込んでくる女性は、決して人生をあきらめたわけではない。むしろ今までの夫婦生活を清算し、文字通り新しい人生へと踏み出すべく、静かに燃えている。

本作ではさまざまな駆け込みが描かれるが、作者の筆のさばき方が絶妙だ。語り口は簡潔、駆け込み人の内心には深く立ち入らない。それでいて、さりげなく漏れる声のなかに、夫婦の葛藤、駆け込みの揺るぎない決意、言葉にならない寂しさが凛と響く。さっぱりした読後感でありながら、余白に目を転じると、そこには人情の機微がただよっている。