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心がちょっと楽になる太宰治『富嶽百景』の名言集

 

こんにちは、『文人』です。


何か嫌なことがあったり、何となく息苦しくてモヤモヤしたり……

生活していると、気持ちが沈んで、前向きになれないことってありますよね。


そんな時におすすめの作品が、太宰治の短編小説『富嶽百景です。


日常生活の中で苦しみを抱えた「私」が、心機一転のため、富士山の景勝地である御坂峠に滞在する。

「私」の眼に映るさまざまな富士山の姿と、富士にまつわる数々の温かいエピソードが語られていきます。


爽やかで、くすりと笑えて、読むと心がちょっと楽になる名作です。


今回はそんな『富嶽百景』の中の名言をわかりやすく紹介していきます。

最後まで読んでいただけると嬉しいです!

 

※「富嶽百景」は、『走れメロス』(太宰治/著 角川文庫)収録の1編です

 

名言①
実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。

 

(前略)けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜しゅうばつの、すらと高い山ではない。

太宰治富嶽百景』より引用

 

日本一の山と歌われ、海外客からも大人気の富士山。

葛飾北斎歌川広重、谷文晁……

名高い画家たちも、この富士山を描いています。


しかし、「私」は言います。

実際の富士山は、そんな絵のように格好よくない、と。


何かと美化されがちの富士山。

その俗なイメージを、具体的な角度を示して払拭しています。


私たちの周りには、美化されたものが何と多いことか。

世間の人々は、美しく、格好よく、清潔なものを好みます。

しかし、そのようなものは一面に過ぎません。


美化されたものには、隠れた裏面がある。

そのおかしさ、親しみ。

それこそが『富嶽百景』のテーマであり、魅力なのです。

 

名言②
あかつき、小用に立って、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真っ白で、左のほうにちょっと傾いて、あの富士を忘れない。

 

(前略)その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用こように立って、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真っ白で、左のほうにちょっと傾いて、あの富士を忘れない。(中略)私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網でながら、じめじめ泣いて、あんな思いは、二度と繰りかえしたくない。

太宰治富嶽百景』より引用

 

「私」は、東京のアパートで見た富士山を、こう振り返ります。


とても嫌なことがあったのでしょう。

アパートの部屋で、ひとり酒をがぶ飲みし、夜を明かした「私」。


明け方の暗い便所、金網の窓から、富士山が見えました。

あの美しい富士山とは似ても似つかない、みじめな富士。

その光景は、便所で「じめじめ」と泣く「私」のみじめさの反映でもあるのでしょう。


「小さく、真っ白で、左のほうにちょっと傾いて、あの富士を忘れない」

「あんな思いは、二度と繰りかえしたくない」


どんなに美しいものでも、見る者の心ひとつで嫌なものに映る。

私たちは、心でものを見ているのです。


心も天気と同じ。

浮き浮きとした晴れの日もあれば、じめじめとした雨の日もあります。

 

 

 

名言③
あの富士は、ありがたかった。

 

(前略)母堂に迎えられて客間に通され、挨拶あいさつして、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、
「おや、富士」とつぶやいて、私の背後の長押なげしを見あげた。私も、からだをじ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰ちょうかん写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい睡蓮すいれんの花に似ていた。私は、それを見とどけ、また、ゆっくりからだを捻じ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。

太宰治富嶽百景』より引用

 

東京で嫌な思いをした「私」は、心機一転の旅に出ます。

滞在先は、御坂峠の頂上にある茶屋。

美しい富士山を正面に見ることができる景勝地です。


茶屋には、作家・井伏鱒二が泊まっていました。

ある日、「私」はお見合いのため、井伏に連れられて甲府に住むとある娘さんを訪ねます。


客間に通されますが、「私」は緊張しているのか、娘さんの顔を見られません。


「おや、富士」

客間に飾られていた富士山の写真に気づき、井伏が見上げます。

「私」もつられて振り向きます。


それは富士山頂の噴火口の写真。

その姿はまるで、「まっしろい睡蓮の花」。


振り向いた半身を戻すとき、「私」は、動作にまぎれて娘さんをさりげなく見ました。

一目ぼれです。

「私」は結婚を決意します。


「あの富士は、ありがたかった」


富士山の光景とともに語られる、「私」の結婚秘話。

娘さんの容姿は、一切描写されていません。

想像するに、「まっしろい睡蓮の花」のような、清楚な佳人だったのでしょう。

 

名言④
私は、足のないような気持で、夜道を、まっすぐに歩いた。下駄の音だけが、自分のものでないように、他の生きもののように、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そっと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮かんでいる。

 

(前略)私は、眠れず、どてら姿で、外へ出てみた。おそろしく、明るい月夜だった。富士が、よかった。月光を受けて、青く透きとおるようで、私はきつねに化かされているような気がした。富士が、したたるように青いのだ。りんが燃えているような感じだった。鬼火。狐火。ほたる。すすき。くずの葉。私は、足のないような気持で、夜道を、まっすぐに歩いた。下駄げたの音だけが、自分のものでないように、他の生きもののように、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そっと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮かんでいる。私は溜息ためいきをつく。維新の志士。鞍馬天狗くらまてんぐ。私は、自分を、それだと思った。ちょっと気取って、ふところ手して歩いた。ずいぶん自分が、いい男のように思われた。

太宰治富嶽百景』より引用

 

御坂峠の茶屋に滞在する「私」のもとに、文学青年たちが訪ねてきます。

「私」は青年たちから、「先生」と呼ばれ、慕われます。


特に親しくなった青年たちと、町で愉快に酒を飲んだ夜のことです。

宿に泊まった「私」は、眠れず、外を散歩します。


月夜に浮かんだ富士山は、「したたるように青い」。

「私」は酔い心地で夜道を歩きます。


「下駄の音だけが、自分のものでないように、他の生きもののように、からんころんからんころん、とても澄んで響く」


振り向くと、そこには青く燃える富士。

そんな富士を背負い、懐手をして歩く「私」。


「ずいぶん自分が、いい男のように思われた」


よっぽど気分が良かったのでしょう。

まるで物語の主人公になった気分。


人はさまざまな役を演じながら世間を渡っています。

脇役、端役、エキストラ。

でも、ひとりの時間は、誰もが主人公です。

旅先の夜道なら、なおのこと、主人公らしく振る舞えます。

 

名言⑤
富士には、月見草がよく似合う。

 

 老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草」
 そう言って、細い指でもって、路傍ろぼうの一か所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色こがねいろの月見草の花ひとつ、花弁かべんもあざやかに消えず残った。
 三七七八メートルの富士の山と、立派に相対峙あいたいじし、みじんもゆるがず、なんというのか、金剛力こんごうりき草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。

太宰治富嶽百景』より引用

 

富嶽百景』の代名詞ともいえる、よく知られた名言です。


御坂峠の頂上と麓を往復するバスの車中。

「私」は、隣座席に座っていた老婆のことが気になりました。


その老婆は、60歳くらい。

整った顔立ちで、座った姿勢も「しゃんと」している。

「私」の母とよく似ていました。


バスの車窓から、富士山がよく見えます。

富士山のほうへ首を向ける乗客たち。

その中でただひとり、老婆だけが、富士山には目もくれず、反対側の断崖を眺めているのです。


その老婆の姿は、苦しみを抱えているようでもあり、わびしげでもあり……

「私」は老婆に共感し、富士山から目をそむけ、一緒に断崖のほうを眺めます。


「おや、月見草」

老婆が何気なく指さした先には、黄金色の月見草の花。


富士山と相対峙した月見草の、「立派」で「けなげ」な印象が、「私」の心に鮮やかに残りました。


「富士には、月見草がよく似合う」


月見草の花言葉は、「無言の愛情」。

名も知らない老婆に寄せた、「私」のひそかな愛情。


俗な大衆より、悩める個人に共感し、そっと寄り添う。

そんな太宰の優しさを感じさせる名言です。

 

 

 

名言⑥
ああ、富士が見える。星が大きい。あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽かに生きている喜びで、そうしてまた、そっとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんということもないのに、と思えば、おかしく、ひとりで蒲団の中で苦笑するのだ。くるしいのである。

 

 ねるまえに、部屋のカーテンをそっとあけてガラス窓越しに富士を見る。月のある夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立っている。私は溜息ためいきをつく。ああ、富士が見える。星が大きい。あしたは、お天気だな、とそれだけが、かすかに生きている喜びで、そうしてまた、そっとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんということもないのに、と思えば、おかしく、ひとりで蒲団ふとんの中で苦笑するのだ。くるしいのである。

太宰治富嶽百景』より引用

 

御坂峠の茶屋に滞在して、しばらくのこと。

執筆の仕事は進まず、孤独で寂しい。


寝る前に、茶屋の部屋の窓を開けて、富士を眺めながら溜息を吐きます。

富士を見て、明日は晴れるだろうな、と思う。


今の「私」には、「それだけが、幽かに生きている喜び」なのです。

それくらい苦しいのです。


自分の生活、人生を生きるということ。

それは大きな苦しみです。


そんな苦しみを一時でも忘れて、心を楽にしたい。

だから「私」は、富士山を眺めて、明日の天気のことを思うのです。


山を眺めたり、空を眺めたりして、そっと苦笑する。

昔の人も、今の人も、そうして1日1日を歩んでいます。

 

名言⑦
富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ。

 

「相すみません。シャッター切って下さいな」
 私は、へどもどした。(中略)私は平静を装い、娘さんの差し出すカメラを受け取り、何気なさそうな口調で、シャッターの切りかたをちょっとたずねてみてから、わななきわななき、レンズをのぞいた。まんなかに大きい富士、その下に小さい、罌粟けしの花ふたつ。ふたりそろいの赤い外套を着ているのである。ふたりは、ひしと抱き合うように寄りい、っとまじめな顔になった。私は、おかしくてならない。カメラ持つ手がふるえて、どうにもならぬ。笑いをこらえて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなっている。どうにもねらいがつけにくく、私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズ一ぱいにキャッチして、富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ。

太宰治富嶽百景』より引用

 

初秋に訪れてから、滞在も長くなりました。

富士山は冠雪し、御坂峠にも冬が迫りつつある頃。

「私」は、山を下りて、日常生活に戻る決意をします。


帰りの日の前日のこと。

茶屋で熱い茶をすすっていると、冬の装いをした観光客がやってきました。

2人組の若い娘さんです。


きゃっきゃとはしゃぎ、楽しそうな娘さんたち。

富士山の前に立つと、

「相すみません。シャッター切って下さいな」

と、「私」にカメラを渡します。


カメラの扱いに慣れていない「私」。

戸惑いながらレンズをのぞくと、大きな富士山が入ります。


そこで「私」は悪戯をやってしまいました。

娘さんたちを外して、富士山だけをレンズに収め、

「富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ。」


あとでフィルムを現像したとき、きっと娘さんたちは驚くでしょう。

俗っぽいことが苦手な「私」らしい悪戯です。


御坂峠の茶屋に滞在し、日々、富士山と対話してきた「私」。

富士山のさまざまな顔を知った「私」の中で、富士は、俗な山から親しい存在へと変わっていたのです。

 

 

 

おわりに

 

人は誰しも、「こうありたい!」という理想を持ち、憧れるもの。

でも、なかなか思うようにいかないのが現実。

人は理想と現実に揺れながら、自分の生活、自分の人生を生きるために苦しみます。


富嶽百景』を書いた太宰治も、きっとそんな理想と現実に苦しんでいたのでしょう。


短編小説『富嶽百景』は、苦しい生活の傍らにある、人の温もり、可笑しさ、ささやかな幸せを感じさせてくれる名作です。


興味を持った人は、ぜひ本を手に取ってみてください。

読めば、心がちょっと楽になりますよ。

 

※「富嶽百景」は、『走れメロス』(太宰治/著 角川文庫)収録の1編です

 

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