当ブログにはプロモーションが含まれています

【不遇の女流詩人】金子みすゞの生涯を美しい詩とともにたどる

 

こんにちは、『文人』です。


金子みすゞ(1903-1930)は、日本を代表する童謡詩人のひとり。

「こだまでしょうか」や「大漁」など、親しみやすい数々の名詩を遺しています。


今でこそ誰もが知る、国民的詩人。

しかし、生前はほとんど世に知られることなく、さまざまな不幸が重なり、26歳という若さで亡くなってしまいました。

才能に恵まれながらも、時代や環境に大きく翻弄された詩人でもあるのです。


この記事では、そんな金子みすゞの生涯を、彼女の美しい詩とともにたどっていきます。

最後まで読んでいただけると幸いです!

 

 

 

 

①孤独な少女時代
―家族との別離―

 

明治36年(1903年)

金子みすゞ(本名テル)は、山口県の仙崎に生まれました。


仙崎は漁師町。

すぐ近くに浜があり、日本海があり、漁の活気がある。

みすゞにとっての原風景です。


金子家には、祖母、両親、兄、みすゞ、弟がいます。


みすゞ3歳の年。

海運業を営む父が病気で亡くなります。

その後、末っ子の弟が、下関に住む親戚「上山家」へ養子に出されます。

こうして、みすゞは幼くして父を亡くし、弟と離れてしまうのです。


父亡き後、母が親類の支援で書店「金子文英堂」を開きます。

まだテレビやラジオが無い時代、書店は、都会の新しい情報や文化が届く重要な場でした。

みすゞはさまざまな本や雑誌に触れ、活字に親しみながら少女時代を過ごします。


みすゞ16歳の年。

母が、下関の「上山家」に後妻に入ることになりました。

こうしてみすゞは、多感な時期に、母との別れも経験するのです。

 

 口真似
 ――父さんのない子の唄――



「お父ちゃん、

おしえてよう。」

あの子は甘えて

いっていた。


別れてもどる

裏みちで、

「お父ちゃん。」


そっと口真似

してみたら、

なんだか誰かに

はずかしい。


生垣いけがき

しろい木槿むくげ

笑うよう。



金子みすゞ名詩集』(彩図社文芸部/編 彩図社
「口真似――父さんのない子の唄――」より

 

みすゞは、成績優秀で、読書が好きで、優しくおとなしい人だったと伝わっています。

「口真似――父さんのない子の唄――」

この詩からも、繊細で、優しい人柄が感じられます。


友だちと遊んだ帰りの場面でしょうか。

迎えに来たお父さんに、「あの子」は、

「お父ちゃん」

と甘えている。


普段はお父さんがいない寂しさを我慢している自分。

でも、この時だけは羨ましくなって、

「お父ちゃん」

そっと口真似をしてしまう。


みすゞには、物心ついた時から、甘えられる「お父ちゃん」がいなかったのです。

さらには、弟とも離れ、母親とも離れなければなりませんでした。


家族との辛い別れを重ねたみすゞ。

仙崎の風景を眺めたり、勉強したり、本を読んだりしながら、心を慰めていたのかもしれません。

 

②詩作をはじめる
―投稿詩人「金子みすゞ」―

 

みすゞ17歳。

女学校を卒業後、実家の書店「金子文英堂」で働きます。


しかし、「金子文英堂」を経営する兄が結婚。

兄嫁が同居するようになり、みすゞは金子家に居づらくなってきます。


大正12年(1923年)、みすゞ20歳。

母の嫁ぎ先であり、弟の養子先でもある、下関の「上山家」に身を寄せます。


「上山家」は、大きな書店「上山文英堂」を営んでおり、裕福な家計でした。

みすゞは「上山文英堂」で働きながら、詩作をはじめます。

そして「金子みすゞ」のペンネームで、雑誌投稿をはじめるのです。


大正期は、雑誌文化の黄金時代。

女性向け雑誌や、子ども向けの童話童謡雑誌など、たくさんの雑誌が生まれました。


雑誌には詩の投稿欄があり、人気詩人が選者を務めました。

みすゞは投稿詩人として、ほとんど毎月のように雑誌への投稿活動をします。

 

 お魚



海の魚はかわいそう


お米は人につくられる、

牛は牧場まきばわれてる、

こいもお池でもらう。


けれども海のお魚は

なんにも世話せわにならないし

いたずらひとつしないのに

こうして私に食べられる。


ほんとに魚はかわいそう。



金子みすゞ名詩集』(彩図社文芸部/編 彩図社

「お魚」より

 

「お魚」は、初めて雑誌に掲載された詩のひとつ。

大正12年9月号の『童話』という雑誌に掲載されました。


漁師町で育ったみすゞにとって、海の「お魚」は身近な生き物。

食卓にもよく上ったのでしょう。


何の罪もなく、何の因縁もないのに、海から揚げられて「私」に食べられてしまう「お魚」。

「こうして私に食べられる」

という言葉から、今まさに食べようとしている「私」と、食べられようとしている「お魚」の存在がありありと伝わってきます。


食う食われるという営みの悲しさ。

自然界と人間との関わり。

「かわいそう」

という言葉の水面下にたゆたう、複雑な詩情。


短い詩文のなかにも、みすゞ独特の才能のきらめきがあります。

 

 

 

③「若き童謡詩人の中の巨星」
―異例の女流詩人 金子みすゞ

 

大正9年に創刊された『童話』は、みすゞが最も多く詩を投稿した雑誌です。

当時、『童話』の投稿欄で選者を務めていたのが、西條八十


西條八十は、北原白秋、野口雨情と並ぶ三大童謡詩人です。

みすゞにとっての憧れの詩人でもありました。


みすゞの詩は、西條八十によって見出され、

「若き童謡詩人の中の巨星」

と称賛されます。


当時、雑誌投稿で詩が掲載された女性はほとんどいませんでした。

男性詩人ばかりの時代なので、女性の詩が評価されにくかったのです。


そんな状況の中、三大童謡詩人の西條八十に認められた。

金子みすゞは、まさに異例の女流詩人なのです。


みすゞは、西條八十の叱咤激励の指導を受けながら、投稿詩人として詩の才能を磨いていきます。


ところが、大正13年、西條八十が投稿欄の選者を降り、フランスへ留学。

すると、みすゞの詩は評価されにくくなり、雑誌の掲載が減っていきます。


さらに、大正12年の関東大震災後の不況。

大正14年に制定された治安維持法による雑誌の検閲など。

時代の波に押しやられるようにして雑誌の休刊や廃刊が相次ぎます。



みすゞの発表の場が、次々と失われていったのです。

 

 不思議ふしぎ



私は不思議でたまらない、

黒い雲からふる雨が、

ぎんにひかっていることが。


私は不思議でたまらない、

青いくわの葉たべている、

かいこが白くなることが。


私は不思議でたまらない、

だれもいじらぬ夕顔が、

ひとりでぱらりと開くのが。


私は不思議でたまらない、

誰にきいても笑ってて、

あたりまえだ、ということが。



金子みすゞ名詩集』(彩図社文芸部/編 彩図社
「不思議」より

 

「不思議」は、金子みすゞの名詩のひとつ。

みすゞの詩には、植物や小さな生き物がよく登場します。


自然界は、いろいろな「不思議」にあふれている。


「黒い」雲から降るのは、「銀」に光る雨。

「青い」桑の葉を食べる蚕は「白」になる。

夕顔は人知れず「ぱらり」と花開く。


「あたりまえ」のようで、実はそうではない。

さまざまな色や音が調和し、美しく響き合う。

そんな自然の神秘を歌い上げています。


金子みすゞの詩は、童謡詩であり、永遠の文学作品でもあるのです。

 

④結婚、出産、夫の風俗通い、そして死去
―かなわなかった詩集の夢―

 

大正15年(1926年)、みすゞ23歳。

「上山文英堂」で一緒に働いていた男性と結婚し、娘を出産します。

みすゞはこうして家庭を持つことになりました。


夫は書店を辞め、問屋業を始めて、商いが繁盛。

しかし男盛りの夫は、金回りが良くなると、遊郭へ通うようになります。


一方で、産後のみすゞは乳飲み子を抱えている。


文学に無理解で、風俗通いを続ける夫。

この夫から、詩作や文通を禁じられ、淋病という性感染症をうつされ……

みすゞの結婚生活は苦しいものでした。


結婚や出産を経て、家庭の人となったみすゞ。

しかし、みすゞは詩を捨てたわけではありませんでした。


昭和4年(1929年)、みすゞ26歳。

手書きによる詩集ノート3冊、

『美しい町』

『空のかあさま』

『さみしい王女』

計512作の詩を、西條八十と、弟の上山雅輔に送ります。


西條八十の分、3冊。

弟の分、3冊。

自分の控え、3冊。

これらをすべて手書きです。


みすゞには、

「自分の詩集を出版したい」

という強い思いがあったのです。


昭和5年(1930年)3月。

みすゞは26歳でみずから命を絶ちました。

離婚した後、夫が娘の親権を主張していた為、娘を奪われたくないという抗議を込めた自死だったといわれています。


3冊の手書き詩集に託した詩集出版の夢はかなわず。

みすゞの詩は埋もれていきます。

 

 夕顔



お空の星が

夕顔に、

さびしかないの、と

ききました。


お乳のいろの

夕顔は、

さびしかないわ、と

いいました。


お空の星は

それっきり、

すましてキラキラ

ひかります。


さびしくなった

夕顔は、

だんだん下を

むきました。



金子みすゞ名詩集』(彩図社文芸部/編 彩図社
「夕顔」より

 

夕顔は、夕方に花を開いて、朝になると萎んでしまう花。


人知れず花開いた夕顔に、夜空の星が尋ねます。

「さびしかないの」

夕顔は答えます。

「さびしかないわ」


夜空でのびのびと光り輝く星は、男でしょうか。

地上でひっそりと咲いた夕顔は、女でしょうか。


もしも星であったなら、その輝きを、たくさんの人に認めてもらえたでしょう。

しかし夕顔は、美しく花開いても、誰にも認めてもらえずに萎んでしまう。


女性の才能が評価されにくい時代を生きたみすゞ。

それでも、女性として、強く生きようとしたのでしょう。

「さびしかないわ」

と。


しかし、ほんとうは、さびしくないわけがないのです。

 

⑤全集の出版、国民的詩人へ
―埋もれていた詩の発掘―

 

みすゞの死後。

日本は軍国主義の時代となり、戦時体制へ。

日中戦争に、太平洋戦争。

童謡詩は廃れ、戦意高揚の詩やメロディーが流行しました。


童謡詩人、金子みすゞの存在は、忘れ去られたような状況になりました。


しかし戦後になると一変します。

戦時体制が終わり、童謡詩が復活。

金子みすゞの詩が掘り起こされていったのです。


昭和32年(1957年)

アンソロジー『日本童謡集』(岩波文庫)に、金子みすゞの詩「大漁」が掲載。


昭和57年(1982年)

『日本童謡集』を読んだ矢崎節夫氏が、「大漁」に衝撃を受ける。

矢崎氏、金子みすゞを尋ね、弟の雅輔にたどりつく。

生前みすゞが雅輔に送っていた3冊の手書き詩集が、矢崎氏に渡り、全集出版の契機となる。


昭和59年(1984年)

金子みすゞ全集』刊行。


平成8年(1996年)

小学校の国語教科書に、金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」「不思議」が掲載される。


平成23年(2011年)

東日本大震災

ACジャパンのCMで、金子みすゞの詩「こだまでしょうか」が朗読され、大きな反響を呼ぶ。

 

 こだまでしょうか



あそぼう」っていうと

「遊ぼう」っていう。


馬鹿ばか」っていうと

「馬鹿」っていう。


「もう遊ばない」っていうと

「遊ばない」っていう。


そうして、あとで

さみしくなって、


「ごめんね」っていうと

「ごめんね」っていう。


こだまでしょうか、

いいえ、誰でも。



金子みすゞ名詩集』(彩図社文芸部/編 彩図社
「こだまでしょうか」より

 

2011年3月11日に、日本を襲った大地震

この東日本大震災により、多くの命が失われてしまいました。

同時に、多くのつながりが絶たれてしまいました。


日本中が暗く沈んでいた時、金子みすゞの詩がメディアを通して流れました。


「こだまでしょうか、

いいえ、だれでも。」


孤独や不安に寄り添い、温かく手を差しのべるような詩。

大人から子どもまで、誰でも口ずさむことができて、心に優しくしみわたる詩。

他者を思いやり、共感し、つながる、そんな人間の持つ可能性に気づかせてくれる詩。


金子みすゞの詩は、多くの人々に知られるようになりました。


時代や環境に大きく翻弄された不遇の女流詩人、金子みすゞ

しかし今では、国民的詩人として広く親しまれています。

 

 

 

おわりに

 

金子みすゞは、512作の詩を遺しました。

詩人としての類まれなる才能を開花させながらも、女性の活躍しにくい時代に生まれ、生前は世に広く知られることがなかったみすゞ。


しかし、彼女は詩を捨てませんでした。

血のにじむような労力で作り上げた3冊の手書き詩集が、死後、彼女の詩を愛する人から人へと伝わり、形を変えて、現代を生きる私たちのもとへ届いたのです。


東日本大震災をきっかけに、その詩が日本中にこだましたように。

これからも金子みすゞの詩は、さまざまな形で、人々の心に響いていくことでしょう。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

興味を持った人は、金子みすゞの詩集を手に取ってみてください。

あなたの心に響く詩が、きっと見つかりますよ。

 

参考

 

 

🔎こちらの記事もよく読まれています!

honwohirakuseikatu.hatenablog.com